アタシは趣味で「音楽」を作っている。
趣味が「作曲活動」と言えば聞こえはいいが、実は「楽しい」ことよりも「苦しい」ことのほうが圧倒的に多い。
歌詞も書くのだが、自分の言葉を自分が納得できる言葉として生み出すことで、自分という存在の理解が深まることがある。
感情を言葉にするときの注意点
「悲しい」という感情を表現するときに、「悲しい」という言葉では自分の感情を表現できないことが多々ある。それは、「悲しい」という感情が生まれるためのバックボーン(背景)が重要だからだ。だから、なぜその感情を抱いたのか、ということをひたすら考え尽くし、内省する。
例として、ここでいう「悲しい」は「猫が死んでしまった」からだとする。
猫が死んでしまった後、部屋の掃除をしていると、猫が好きだったおもちゃを見つける。そして、その猫がいつも眠っていた部屋の隅に目を向ける。その時に、「あー、もういないんだな」と実感する。猫がいた日常という「過去」を思い出し、それが「今」は無いのだと本当の意味で理解した瞬間に「悲しい」という感情が生まれる。
時間の流れの中で感情の動きを見つめる
「過去」から「今」までの時間の流れの中にあった感情を言葉にするには「悲しい」では不足なのだ。「悲しいという感情が、どのような過程のなかで生まれたのか」ということを言葉にする必要がある。
ここでは「悲しい」を別な時間の流れを捉えた言葉で表現するために、「おもちゃの置き場所」に焦点を絞ってみる。
もういない猫のおもちゃが誰かに使われることはない。では、このおもちゃはどうするべきなのか。捨ててしまう方が悲しい思いをしなくてもいいのではないか、それとも猫がいたということを綺麗な思い出としていつまでも覚えておくのがベストなのか。
そういった心の葛藤をそのまま歌詞にすると、「感情が表へ出て来やすい=相手に届きやすい」ことになる。
歌詞を書くには慣れが必要
「歌詞を書く」という行為は自分自身の感情を見つめることと同義だ。
それには慣れが必要になる。
今自分がどういった感情を抱いているのか、ということをもう一人の自分でしっかりと見てあげることが必要だ。
感情によって動いた心や反応を俯瞰する力が求められる。
「会いたくて会いたくて震える」という歌詞に学ぶ
「会いたくて会いたくて」という曲は、別れたカップルのストーリーだ。
ネット上で面白おかしく叩かれている「会いたくて 会いたくて 震える」という歌詞も、会いたい「切なさ」という感情を「震える」という身体反応で言い換えており、自分自身を俯瞰することができている例だ
「会いたくて 会いたくて」という曲には「喜、怒、哀、楽、愛、憎」とう感情を表現する言葉が登場しない。これは「哀」という感情を時間軸で捉え直し、また別の言葉で表現しているからだ。
その言葉でしか表現できない「感情」があったのだろう。それが「彼の声をもう一度聞きたい」という歌詞となり「会いたくて 会いたくて 震える」という歌詞になるべくしてなったのだと思う。
「批判」という「愛」を恐れずに
自分自身が納得したものを作れれば良い、と自己完結型の人は強い。
アタシたちは誰かと理解し合いたいために、誰かと関わり、誰かを理解しようとする。
一つ大切なことを伝えておきたい。何か作り上げ、それを誰かに理解してもらおうとしたとき「批判」はつきものだ。批判から学ぶことは、自分自身の枠を壊すリスクもあるということだ。
現在の自分を壊すメリット、デメリットを考え、現状自分の作り出すものに満足できていないのであれば「批判」を参考にして自分自身の枠を壊すことも成長に繋がることもある。
ここで勘違いしないで欲しいのは「批判」と「誹謗中傷」は全くの別物だということだ。批判には「愛」があるものだとアタシは思っている。興味のないものに対して「〇〇をこうすればよい」というほど自分たちの周りにいる人間は暇じゃない。批判とは向上できることを見込んでの「願い」にも似た「愛」だと感じるのだ。
誹謗中傷とは思考が止まってしまった状態のひとが行うものだ。「おもしろくない、つまんない」など、その先に繋がる表現をその人は知らないのだ。だからそのような人のことは忘れてしまって、あなた自身の表現を自信を持って続けて行って欲しい。