「空気を読めよ。」
「だいたい分かるでしょ。」
「察してよ。」
こんな言葉がそこらじゅうに飛び交っているよね。
日本は【察しの文化】が美化されすぎていて「言わなくても伝わる」というなんともエゴイスティックな風潮がはびこっていると思うのね。
そして従順にその掟を守っていると「言わなきゃ伝わらないよ!」なんて当然のことを言われちゃう。
「空気を読め」という人は「自分が思っていることは、相手も思っている」と勘違いしている人なんだよね。
例文を使って説明するよ。
「自分が思っていることは、相手も思っている」という勘違い
例えば
もしアタシが公園のベンチに座って木の葉が揺れているのを眺めていたとするね。
そしてA君がアタシの隣に座ってこう言う。「何見てるの?」って。
そしたらアタシはこう答える。「葉っぱが揺れているのを見てるの。」
そしてA君は「綺麗だね。」って言う。
絶対に分かり合えない理由
このやり取りの中でもアタシたちが見ているものも、感じていることは絶対に違うっていうことが言えるのね。
なぜならアタシは「木のてっぺんから今にも吹き飛んでしまいそうな葉っぱ」を眺めているのだけど、A君はどの葉っぱを見ているか分からない。
そしてアタシは「あの葉っぱが吹き飛んでしまったら悲しいな」と思っているのに、A君は「綺麗だね。」と見当違いなことを言う。
本当に正しく「何か」を伝えるには、ものすごい労力が必要なのね。
正しい伝え方の例
アタシは公園のベンチで木の葉が揺れているのを眺めている。
A君が「何見てるの?」って言う。
正しく伝えるためにアタシは「あの右から3番目のこの公園で一番大きな木があるでしょ?その木のてっぺんに一枚だけユラユラ揺れてる葉っぱがあるでしょう?それを見ているの。」
そしてA君は「綺麗だね。」って言う。
アタシは今の感情を正しく伝えるために「綺麗だとは思ってない。あの葉っぱが吹き飛んでしまったら悲しいな、と思っていたの。寒空の下、健気に枝に掴まって生を全うしようとしている葉っぱを見ているとただただ悲しいの。アタシたちも世間という強風に吹き飛ばされてしまいそうになることがあるけれど、生きていかなきゃいけない。あの葉っぱとアタシという存在を重ねてしまって…。」
A君は途中で帰ってしまうかもしれないね。
詳細に物事を語ると分かり合えるのか?
上の「正しい伝え方の例」の方法だとA君に正しく伝わったのかな。
答えは【NO】
どんなに事細かく何かを語ったところで、100%正しく伝えることなんてできないんだよね。
なぜならアタシはA君じゃないし、A君はアタシじゃないから。
アタシたちは「絶対的に100%分かり合うことなんて不可能」ということを大前提に人と関わらなきゃいけないと思うのね。
分かり合えた喜び/分かり合えない悲しみ
「60%」の理解を目指そう
人間は100%分かり合うことなんて無理なのね。
だったら赤点ギリギリ合格点の60点を狙おうよ。
アタシの「これ良い!」と、誰かの「これ良い!」が繋がることができたらもう「それなりに」分かり合えたってことで良いんじゃないかな。
だって、アタシが良いと思った理由と、誰かの良いと思った理由が同じでなくても、お互いの「良い」という本質は変わらないから。
「分かり合う」ことは喜びだよ。「何か」で、自分を認めてくれる人がいるってことなんだから。
分かり合えなくても落ち込む必要はない
もし誰かと分かり合えなくても、落ち込んだり、「あいつは何もわかってない!」と腹を立てる必要はないよ。
だって、人間ってそもそも「分かり合う」ということができないんだもの。
空気は読んだって無駄/空気という不確かなモノ
空気は読んでも無駄。だって言葉を使ったって分かり合えないんだもの。
「表情やしぐさ」などの非言語的コミュニケーションよりも不確かな「空気を読む」という行為で誰かと分かり合うことなんてできないと思うのね。
「空気を読む」という不確かなものよりも「言葉」や「表情」を使って相手と1%でも多く理解し合おうとすることの方が有益だと思わないかな。
さいごに
【察しの文化】【空気を読む】この言葉のせいで苦しんでいる人が少なからずいると思うのね。
でも安心して。
「人間は本当の意味では分かり合えない」というのが当たり前のことだから。
人間の根源にある「当たり前」を知っているあなたの方が、人と深い関わりができるとアタシは思うけどね。