苦しみを理解してもらおうとするリスクについて。

苦しみを理解して欲しい。

こんなに苦しいんだから、それが私という人間を作ってるはず。と自分を肯定できる瞬間がある。

それを他人と共有しようとすると、たちまち作り上げた自分という存在が崩れてしまうことがある。

なぜそんなことになるかというと、

わかってくれるはず。

というおごりがあるから。

 

わかってくれるはず。というおごり

わかってくれるはず、という気持ちには「自分が正しい」というおごりがある。

「わかってほしい、でもわかってもらえないかもしれない。わかってもらえなくても自分の考えは、今の自分自身の答え」というスタンスを崩してはいけない。

誰かに「それ、違うんじゃない?」と言われて崩れてしまうのは、

「出来立てホヤホヤの自分」だから。

それが間違っているとか、正しいとかそういう問題では無く、「反芻」という接着剤が固まりきっていないから。

自分の考えは、自分で振り返り反芻する。

それは、時間という経過によって繰り返し何度も自分で形を変えながら形にしていく。

崩れないように、違う考えをくっつけることもあるし、やっぱり違うなーと取り外したりする。

そうやって、自分の考えは確立していくものだと思っている。

 

このブログは、私の備忘録

このブログのメッセージ性は捨てた。

誰かにわかって欲しいというのは、とても骨が折れる。

なぜなら、自分の考えはしっかりと出来上がっているものとして発信しなければならないから。

〜と思っています。〜ではないかなー。

という曖昧さは、伝えるということに着目すると弱さを感じる。

〜はこう!〜で間違いない!

言い切る強さの魅力も知っている。

しかし、それをする怖さも知っている。

考えというブロックを、常に付けたり外したりしている私の場合は、考えが変わるからだ。

それがいいことか、悪いことかは問題じゃない。

結局のところ、自分で納得して出した答えが、自分の中の真実なのだから。

 

苦しみは理解してもらわなくてもいい

苦しみは理解してもらわなくてもいい。

苦しみを他人との対話でしか癒せないと思っている人がいたら、そんなことないよと伝えたい。

自分との対話が大切。

これってなんで苦しいんだっけ?

という疑問に対して、今までの自分の経験や、それから生まれた価値観で答えを導き出してあげることができる。

あなたの一番の理解者は、あなた自身で無くてはいけない。

あなたはあなた自身で、あなたを許せるし、あなたの答えを理解してくれるのはあなただ。

その答えを誰かに理解してもらおうとするのじゃなく、あなたが同じ苦しみを抱える人を理解してあげよう。

それなら、できる!と私は言い切ることができる。